トルーマン・カポーティの『冷血』を読んで

昨日は一日中風邪で寝込んでいたが、本はなんとか読めたので、
ここのところ読んでたトルーマン・カポーティの『冷血』を読み進めたところ、
一気に読み終えることができた。読み終えて、これは確かに傑作だと思った。
読む前は、よっぽど残忍な殺人をよっぽど冷酷な犯人がおかした話かと
思っていたが、そうではなかった。殺人事件としては普通だし、犯人も
さほど異常なわけでもない。異常なのはむしろカポーティの語りである。
実際、これだけの長さを、これほどのテンションを維持して書き切った
カポーティの芸術的執念こそ、最も恐るべきものである。
…というようなことは、約40年前の発表当初からさんざ言われてきたようだが、
今回初めて通読して、僕自身もその通説に賛同せざるを得なかった。
この『冷血』を書くにあたってカポーティは3年かけて徹底的な取材を行ない、
その過程で、警察所長の買収など、非道徳的な行動も辞さなかったという。
このへんのところを描いた映画「カポーティ」がこの秋日本でも公開されるらしく、
今売りの週刊新潮によれば、試写会は常に満員だそうである。
カポーティ、特にこの『冷血』は、団塊の世代に大きな影響を与え、
その影響は、沢木耕太郎をはじめとする日本のニュージャーナリズム派の
ノンフィクション作家たちを経て、今日まで及んでいる。それはまさに、
及ぶべくして及んでいる影響であることが一読して分かる。
いずれにせよ、僕を魅了したのは、何よりも、カポーティの文体である。
終始一貫して抑制され、必要十分な情報伝達以外の働きは何もしていないようでいて、
しかも全体が一本の張り詰めた長い長い鉄鎖のような緊密な文体をなしている。
完璧なナラティブと恐しいほどクールな文体。こんな作品を書けるほど才能のある人間は、
ホモでアル中で麻薬中毒で変死するぐらいで当然だろう。そうでなければ不公平である。


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