本田美奈子との無縁さについて

本田美奈子に関しては、全くと言っていいほど思い出がない。
アイドル時代もその後も、私は彼女に対して無理なく無関心であった。
一方、アイドルとしての本田美奈子には明らかに無理があった。
まずなんと言っても、誰もが知るとおり、歌が上手すぎた。
1980年代、アイドルとは何よりもまず、歌が下手な歌手を意味した。
この意味で、本田美奈子は完全にアイドル失格であった。
もう一つ、エロくないのにエロぶっていた点にも無理があった。
1986年のマリリン」でヘソを出して腰を振って歌っている彼女をテレビで見て、
なんとも痛ましい感じを受けたことを覚えている。
これは、たとえば、宮崎あおいの写真集「イクない?」で、
食い込みのきつい水着で無理に笑顔を作っているカットを見たときに感じたのと
同じ種類の痛ましさである。「なんか違う……」という漠たる違和感ではなく、
「明らかに間違っている」という不正の事実がアイドル本田美奈子にはあった。
エロくない主体にエロを演じさせるのは、ねずみっ子クラブでも見られたように、
秋元康の趣味だったのかも知れないが、私にはただの悪趣味としか思えなかった。
いつしかアイドルを卒業してまっとうな歌手そしてミュージカル俳優の道を
歩むようになってからも、私との接点はないままであった。
私にはまっとうなミュージカルへの嗜好がないからである。
良い出会いを体験したときに人はつい「出会うべくして出会った」などと
言いたがるが、私と本田美奈子とは「出会うべからずして出会わなかった」
例の典型と言えるかも知れない。私にとって芸能が魅力ある何かであり得るのは、
それが私をまっとうさの檻から解放してくれる限りにおいてである。
岩谷宏は「関心ではなく無関心の対象を知ることによって自分自身を知れ」
と書いていたと思うが、本田美奈子への私の無関心は、私という人間の
まっとうな芸能への嫌悪の深さを暗示しているような気がする。
彼女の死を文字通りの「早すぎる死」だったと思うことに抵抗はないし、
抗がん剤の副作用で髪が抜け落ちた頭を毎日違うバンダナで包んでいた
事実を追悼記事で知れば不意に目の裏が熱くなったりもするが、それでも、
彼女は私にとって、無縁であるほかない芸能人であったと思う。合掌。